無題
――どくん
心臓が飛び出したのかと思った。
突然耳元で、鼓動が響いた。と、同時に、引き裂くような激痛が全身に走った。
「う……あぁ………………!!」
苦しい。
あたしがあたしでなくなりそうだよ……!
飛鳥は異変に身悶えた。
もどかしいような、満たされないような、身を焼かれるような苦しみが、彼女を襲っていた。
「飛鳥? どうしたん、大丈夫?」
友の異変に気付いた沙綾が、軽く声をかける。
「さあちゃん……苦しいよ……」
ずるずると、薄暗い地面に伏す。
沙綾も身をかがめ、飛鳥の背中をさする。
「気分悪い? おなか痛いと?」
さすりながら、飛鳥の顔色をうかがうように首を傾げる。尋常ではない飛鳥の様子に、自然と沙綾の顔色も険しくなる。
飛鳥は沙綾の声に、うつ向いた^まま首を横に振る。
「うぅ……っ!」
両手で、飛鳥は自分の体を抱き締め、苦しみに顔を歪めた。
――どくん
再び鼓動が響く。それと同時に、不意に襲った苦しみは消えた。
「――欲しい……」
「え? 何て?」
「血がほしい……!」
不意に飛鳥は身を起こすと、ものすごい勢いで沙綾の首に手をかける。その瞬間、眸を見開き、おぞましい色を湛えた飛鳥の目と沙綾の目とが合った。
「……………あすか……?」
「………!」
飛鳥は不意に強い嫌悪感に襲われた。
(今、自分は、何て言った? そして何をした……?)
飛鳥は震える手を、おそるおそる首から離す。
沙綾の顔には、困惑と、疑心と、恐怖の色が浮かんでいた。しかしそれは一瞬で消え、いつもの彼女の笑みへ変わった。
「――飛鳥、顔色悪いよ。……ちょっと、どこかの物陰で休もうよ」
はっきりと見たはずなのに、怖い思いをしたはずなのに。
何もなかったかのように、沙綾は飛鳥に笑いかけ、励まし、友の肩を支えて立ち上がろうとする。
それがますます飛鳥の自己嫌悪の念を一層強めた。
飛鳥は沙綾を拒んだ。
「――さあちゃん、逃げて……」
うつむいて^、つぶやく。
かすかに声が震えていた。
「なん言っとぉとよ。飛鳥を置いて逃げるわけにはいかないでしょ? さ、少し休もう、ね?」
「いいから早く逃げて!」
沙綾の言葉が終らないうちに、飛鳥は必死に叫ぶ。その眸には涙が浮かんでいた。
「あたし、……あたし、今、さあちゃんを殺そうとした……ねぇ、早く逃げて……さあちゃんを殺したくなんかないの……おねがい…………!」
「あすか……」
飛鳥は、自分自身が怖かった。
大切な友人を殺すなんて、誰がそんなことをするだろう。しかし今、本気で沙綾を殺そうとした自分がいた。恨みなんかない。身体が彼女の血を、力を欲していた。
「……逃げて………」
涙がこぼれた。
沙綾は飛鳥に寄り添うように身をかがめると、おえつ^する飛鳥の背中を、優しく摩った。
「大丈夫。飛鳥ならきっと、大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか良くわからなかったけれども、自然とそんな言葉が出た。もしかするとそれは、沙綾自身に向けた言葉だったのかもしれない。そもそも沙綾にとって飛鳥は姉妹のような存在である。恐怖よりも、むしろ慈しみの方が先に立ったのであった。
「ねえ、飛鳥。一緒にもとの世界に帰ろう。――うちはね、飛鳥と一緒なら、何でも乗り越えられる気がするっちゃん。いつもそうだった。学校でも、日常でも。……それに、もし飛鳥が飛鳥でなくなっても、うちはずっと傍におるけんね。なにがあっても、きっと飛鳥の傍におるけん。……そこんとこ、忘れんでよ」
泣きながら飛鳥は何度も何度もうなずいた。
沙綾もなんだか泣けてきて、二人して一緒にわんわん泣いた。
二人がやっと落ち着いた頃には、昼だというのにすっかりあたりは真っ暗になっていた。
「さ、行こう」
「うん」
手をつないで立ち上がると、星明りを頼りに道を進む。目指すは村で有名な術遣のもとだ。沙綾と飛鳥が話し合った結果、飛鳥の苦しみを取り除くことのできるのはあの術遣しかいないだろうという結論が出たのだ。
しばらく談笑しながら歩いていると、見覚えのある通りに差しかかる。本来なら緑の葉を茂らせているはずの、しかし今ではすっかり裸になってしまっている桜の木が植えられた、緩やかなカーブを描く川沿いの道。この道なりに行けば、目的地まであと少しだ。
「きれいな星だね、さあちゃん」
「地上はこんなにおかしなことになっちゃってるのに、星は変わらないんだね」
「ほんとにねぇ……」
やれやれ、と二人は溜息をつく。と、
――どくん
「さあちゃん!」
「え?」
沙綾が振り向く間もなく、彼女の首が飛んだ。
飛鳥は一瞬の出来事に、訳が判らず目を見開く。両手で口元を押さえた。
虚空を、円を描きながら、黒い影はくるくると、地面へ落ちる。
どす、という地面にぶつかる鈍い音と同時に、飛鳥は強い衝撃と自己嫌悪と、様々な負の感情に襲われた。けれども涙は流れない。心臓の音が嫌にはっきりと、耳元で響いていた。
「さあ・ちゃん…………?」
首から上を失った不自然な胴体が、静かに崩れた。
血の匂い。
飛鳥は水たまりのように地面に広がるそれを見て、沙綾の血液と共にその力をもすすりたい^という衝動に駆られたが、そんな欲求よりも更に強い自己嫌悪という念がそれを抑えた。
呼吸が乱れる。
「さあちゃん、ねぇ、さあちゃん!」
返事はない。
飛鳥の体は、ぶるぶると震えていた。顔は真っ青だ。
(今、あたしは、なにをした………?)
「悪ふざけは止めてよね、さあちゃん……ねぇ、早く行こうよ、……」
(悪ふざけなんかじゃない。
殺ったのはあたしだ。
あたしがこの手で、沙綾を………!)
犬の遠吠えが聞こえる。
腹が立つほどに、町は静かで、穏やかだ。
「蓮月沙綾っ!」
腹が立った。
怒鳴ると関が切れたかのように、涙が溢れた。
「さあちゃん! さあちゃんっ!」
足から力が抜けて、地面に座り込む。そして飛鳥は大声で泣いた。
「やだよ、さあちゃん! いやだぁぁぁぁ……っ!」
真昼の暗闇に、悲痛な叫びが響く。
狂ってしまった世界は、飛鳥の声を貪欲に呑み込む。漆黒の空に瞬く星星は、ただただそれを見下ろしている。
(あたしが沙綾を殺してしまった。
大切な友を殺してしまった。
あたしが、あたしが………っ!)
「じゃあ、取り引きをしようか」
――ざり。
砂利を踏む音が空気を払う。
飛鳥は顔を上げる。その顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
そよぐ風に乗って、甘いような、冷たいような、なんともいえない凜^とした香りが聞こえた。
「もし取り引きに応じてくれるのなら、その子を生き返らせてあげる」
誰かが飛鳥へ近付いてくる。しかし涙で視界が曇って、飛鳥にはそれが誰なのかわからなかった。けれども聞き覚えのある、なぜだか心が落ち着く、声。
「取り引き?」
しゃくりあげながらようやく問う。その問いに相手は「そうだよ」と答えた。
その者の右手には、小鬼。
小鬼は少年に角を掴^まれ、恐怖の顔色で必死に彼の手から逃れようともがいている。その手には、小さな体には不釣合いな、赤い液体の滴る大きな鎌が握られていた。少年がもう一方の手で空(くう)を掴^むと、小鬼の体は奇妙にねじれ、パチン、とはじけてしまった。血痕のついた鎌は、鈍い音を立てて地面に転がった。そして卯花の狩衣を纏った小柄な少年は、無造作に下ろした髪を風に遊ばせながら飛鳥のすぐ目の前までやってくると、飛鳥の目線に合わせてかがんだ。
その顔には、どこか切なげな、微笑。
「下等な小鬼の仕業だよ。こいつらは人を食べることで力を得ようとする汚い奴らなんだ。」
「――うそよ。」
「なんだ、やっぱり分かってたの。自分が殺してしまったんだって」
飛鳥はぐっと涙を堪え、そうして掌で涙を拭った。
ぼんやりとしていた視界は晴れ、目の前に、星明かりに照らされた少年の顔が浮かび上がった。
(あれ、この顔は……)
「木宮くん……?」
「やあ、飛鳥」
にこり、と少年は笑った。
「久しぶりだね。こうやって話すの。あの日以来だね」
微笑。
しかし飛鳥はそれどころではなかった。突然の衝撃的な出来事に、どうしていいのか分からなかった。また、なぜ木宮は笑っていられるのか不思議で、そして腹が立った。
「木宮くん、あたしとても、苦しいの……あたし、さあちゃんを…………!」
卯花の重ねの木宮は、ちらと、闇の向こう側を見る。黒黒とした地面に、元は沙綾だったものが横たわっていた。
「木宮くん……あたし……もう、いや……どうして」
堪えていた涙が溢れそうになった時、不意に飛鳥は優しさに包まれた。
「…………」
太一の長い髪が顔にかかる。幽かな、ふんわりと優しい香りが漂う。
なんでこんなことになってしまったんだろう。飛鳥は思う。
そして不意に、あの日の放課後のことを思い出す。
――俺、飛鳥のこと好きになった
もうどのくらい昔のことになってしまったのか。けれど実のところは、ほとんど時間は経っていないのかも知れない。
「……もう、あえないかと思ってた」
返事もせずに終わってしまうのだと、一生後悔し続けるのだと飛鳥は思っていたけれど。だけど……
「だけどまたこうして出あえたんだね」
なんだかとても安心する、声。
このまま何もかもを忘れられたらいいのに、と飛鳥は思った。――沙綾のことも……
「飛鳥は何も悪くないんだよ」
耳元で囁いた。
一瞬忘れかけていた恐怖と自己嫌悪が押し寄せる。
「うそ! あたしがさあちゃんを殺したんだよ!
――放して。あたし、木宮くんも殺してしまうかもしれないわよ……!」
飛鳥が木宮を突き放そうとするまでもなく、木宮の腕から開放された。
「ごめん、飛鳥……俺がいけないんだ。こうなることは分かっていた……苦しい思いをさせてごめん……」
「どういうこと?」
飛鳥はうつむいて^いた顔を上げると、聞き返した。その時木宮は、今まで見たこともないような、とても悲しそうな表情で、眉間に皺を寄せて、静かに目をつむっていた。
「木宮くん……?」
飛鳥は首を傾げた。
静かに木宮は眸を開く。
そこには悲しみの色も、何もなかった。
「……ねぇ、飛鳥。飛鳥にとって蓮月さんは、大切な人?」
不思議な問いだ。
けれども飛鳥は木宮の目を見て、はっきりと答えた。
「そうだよ。さあちゃんは、あたしの一番の友達で、姉妹のようなものだもん」
語尾がかすかに震えた。
言葉にすると、目頭が熱くなって、涙がまたこぼれそうになる。けれどもそれをぐっと堪えた。
「そう……」
かすかな笑みを口もとに浮かべて、木宮。
緩やかなカーブを描く、枯れてしまった桜並木は、突然思い出したかのように一斉に真っ白な花をその枝いっぱいにつけた。その花びらが、飛鳥の髪にも、木宮の肩にも、そして沙綾であったものの上にも舞い降りた。
鉄のような生臭い香りが、一瞬飛鳥の鼻をくすぐった。けれどもあの獣のような、おそろしく強い、血を欲する欲求は起こらなかった。
「――さぁ、飛鳥。取り引きをしようか」
微笑。けれどもどこか、切ない微笑み。
「なにを、取り引きするっていうの?」
慎重に聞き返す。
木宮は顔色を変えずに答えた。
「君が……飛鳥が、俺らのもとへ来てくれるのなら」
そう言って少年は目を細める。
取り引きの条件に、飛鳥は一瞬目を丸くしたが、答えは元からひとつだった。
「その取り引き、乗った」
「そう言うと思ったよ」
木宮はほっとしたように笑うと、懐から札と数珠を取り出し、ひとつ息をついた。
桜の花がひらひらと、舞い落ちる。
飛鳥に、木宮に、静かに降り注ぐ。
流れる川は、白い涙を揺らめかせ、飲み込んだ。
真夏だというのに、その様は悲しく美しい。
不安定で、乱れきってしまったこの世界で、ただこの場所だけが、確かな時を刻んでいるようだった。



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